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町医者として

開業直後同門会報に載せた文です。当時の気持ちが懐かしく思い出されます

開業直後(H7)医大の同門会報誌に投稿したもの
 私は本年9月、生まれ育った鯖江で無床内科医院を開業し、いわゆる町医者になりました。「町医者」なんていまどきダサくて流行らないと言われそうですが私には昔から町医者に対する私なりの思い入れがありました。
 私が漠然と町医者になろうと思ったのは中学時代で、自分の身近な人が病気に罹ったときに治して長生きさせてあげられるというのがその動機だったように思います。いつも発作に悩まされ、長患いの末喘息で亡くなった祖母の影響もあったと思います。中学時代は毎日遊び呆けていましたが、友人には医者になることを宣言していました。そのような訳で私にとっては医者として最終的に落ち着くところは、肉親がいて幼なじみがいる故郷以外には考えられませんでした。
 高校生になって、医者になるための医学部が最難関であることを知り、高校時代は一転受験勉強に明け暮れましたが、夢見る少年にとってそれは不思議と楽しいものでした。勉強の合間に考えていたことといえば、どんな医者になろうかということと自分の医院ではBGMを流して花を飾ろうとか、電話健康相談をやろうなどという医者になってからのことばかりでした。20年経った今、私の医院では患者さんの心を和ませるため心地よい音楽を流し美しい花や絵を飾っています。
 高校2年の頃、胸部検診で要再検とされ、ある大病院を受診したことがありました。病院は薄暗く、医者は高圧的でそっけなく、説明は不十分で、残念ながらそれは心細くて不安な患者に対してとるべき医師の態度ではありませんでした。以来「ああいう医者にはなるまい」と心に決め今日まで来ました。しかし、振り返ってみるといろいろ後ろめたい事もあると認めざるを得ません。とくに研修医の頃は「病気を診て人を診ず」の例えどおり、いかに治してあげるかではなく、いかに診断してあげるかが大切なような大きな勘違いをしていたように思います。それは大学病院の宿命といえばそれまでですが、当時の患者さんたちには申し訳なかったと思っています。  医者4年目、研究室でモルモットに塩水を飲ませ首を切り落としている頃、ふと胃透視も出ない自分に気づき我に返ったことがあります。「ナンだ、お前はこんなことをするために医者になったのか !!」 哀れなモルモットたちの恨み節が聞こえてくるようでした。  

 医者5年目に小浜病院赴任を命じられたのが今思うとまさに渡りに舟で、さしずめ私は水を得た魚といったところでした。伸び伸びといろんなことを学ばせていただきました。そして自分でも曲がりなりにも医者らしくなれたと感じたのは11年目、小浜病院7年目のことで、この年開業の準備にとりかかりました。小浜病院での経験から痛感することは、臨床医にとっては一人の患者さんと出来るだけ長く付き合うことが大切だということです。患者さんや職員さんに恵まれたこともあり、小浜での7年間はまさに医者冥利に尽きる、忘れかけていた医の原点を呼び戻してくれた充実した楽しい日々でした。
 私は町医者こそが医の原点と考えています。「自分の幸福のためにやっていることが人の幸福になり、人の幸福のためにやっていることが自分の幸福になる」このような最高の天職につかせて頂けた幸せを感謝しつつ、町医者としての使命を果たして生きたいと思っています。
 
平成 7年10月  木村和弘
 

てっせん

 

 

 

 

 

 

なんていう花か?

 

 

 

 

 

 

バラ

 
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