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広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像

僕が初めてその仏様、弥勒菩薩半跏思惟像、に出会ったのは、大学一年の秋、京都の大学に通う友人の所へ遊びに行った時のことです。友人の下宿に泊めてもらって京都を案内してもらいましたが、そのとき連れて行ってくれたところが広隆寺でした。数ある名所の中からどうして広隆寺を選んでくれたのかはわかりませんが、近くの映画村がメインで、広隆寺はそのついでだったのかもしれません。

ちょうど初秋の頃、広隆寺に着いたのは少し陽が傾きかけていた夕刻でした。今では、広隆寺の境内には立派な宝物殿が増築され、その中に弥勒菩薩をはじめとした仏像が展示されているのですが、その当時はまだ宝物殿などはなく、古い建物の中のまるで手が届きそうな位置にさりげなく安置されていたように思います。

今でも初めて弥勒菩薩を見たときの情景はおぼろげにではありますが印象深く覚えています。弥勒菩薩は西側を向いて座っておられたはずで、ちょうど本堂の格子から差し込む夕日がそのお顔に当たっていました。夕日の柔らかい光に包まれて何ともいえない美しい陰影ができ、その穏やかで優しいお顔とお姿は、まさにこの世のものとは思えないほどでした。思わず我を忘れて魅入ってしまいました。おそらく数分間はそのままうっとりと見とれていたと思います。
後で、昔ある学生がこの弥勒菩薩に魅入っているうちに思わず抱きついてしまい、その拍子に仏像の手の指を折ってしまったという事件があったことを教えられて、なるほどありうる話だと納得したものです。またある高名なドイツの哲学者をして 「人間の存在の最も清浄な、最も円満な、最も永遠な姿の美の象徴」 と言わしめたことは有名な話で、これまたもっともなことと思わされます。

以来、医者になってからも、時々弥勒菩薩に会いたくなり、数年に一度は広隆寺を訪れています。
今では鉄筋の立派な宝物殿ができ、弥勒菩薩はその中に展示されており、初めてお会いしたときのような、西日を浴びている美しいお姿は見られませんが、柔らかい照明の静かな堂内にはゆっくりと座って拝顔できる畳の間が設けられており、時間さえ許せば30分でも一時間でもそこに座って弥勒菩薩を見上げていられます。いろんな角度から何時間見ていても飽きない、できればそのまま弥勒菩薩の懐で眠ってしまいたいような気分にさせられます。
いつも不思議なのですが、この弥勒菩薩の前にたたずむと、何とも平穏な気分になり、何の涙か自分でもわかりませんが自然と涙があふれてきます。

相田みつおの詩に仏様を詠んだ作品がいくつかありますが、その中に

  あなたの顔を見ていると こころの中の 波がしずまる

というのがありますが、ちょうどこういう感じでしょうか。
そしてもう一つ、同じく相田みつおの仏様を詠んだ詩に「うん」という詩があります。

つらかったろうなあ
くるしかったろうなあ
うん うん
だれにもわかってもらえずになあ
どんなにかつらかったろう
うん うん
泣くにも泣けず
つらかったろう
くるしかったろう
うん うん

もしこの弥勒菩薩が打ちひしがれた人に言葉を掛けてくださるとしたらきっとこんな感じでしょう。この詩を聞くとき慈悲深い弥勒菩薩の姿とダブってジーンとしてしまいます。

仏像は日本全国数知れずありますが、僕の場合、眺めているだけでこんな気分にさせられる仏像はこの広隆寺の弥勒菩薩をおいて他にはありません。伊達に国宝の第一号ではありません。皆さんも是非一度は広隆寺に行かれて、生の弥勒菩薩様に直接お会いになってください。他の仏像とは違い、この弥勒菩薩様の場合は写真などで見るのと実物とでは全く印象が違いますから。そしてその慈悲深い御心に触れてみてください。  

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